とうだいじやま

東大寺山古墳

 この古墳を一躍有名にしたのが、1961年の盗掘の事後処理として行われた発掘調査後の遺物整理で、銘文のある太刀が発見された事です。銘文には「中平□年五月丙午造作文刀百練清剛上応星宿下避不祥」とあり、中平年は中国後漢末の年号(184~188年)である事から、この太刀は中国から 渡ってきたものである事がわかりました。日本で発見された年号の判明している遺品の中では、金印に次ぐ古さとなります。この時代は、卑弥呼が君臨していた時代(2世紀末~3世紀前半)と微妙に重なり中国・魏から卑弥呼に贈られた可能性も考えられます。ただし、この東大寺山古墳の築造年代(4世紀半ば)とは合いません。卑弥呼の時代から100年の時を経て何故、天理のこの古墳から出土したのかロマンをかきたてられます。いずれにせよ被葬者は古墳の規模から大王墓ではないにしても、当時の政権の重要ポスト(武器管理?)にいた人物と考えられます。見学は、天理教城法(しきのり)大教会の敷地内にあり、受付で許可をもらえば見学は可能です。解説板の横に墳頂部に登る道があり、3分ぐらい登れば墳頂部に到着し、埋葬主体部の大きなくぼみを確認する事が出来ます。墳頂部は竹林で眺望がききませんが、中腹あたりでは素晴らしい眺望を楽しむことが出来ます。尚、周辺に同規模の前方後円墳が3基あり、東大寺山古墳→赤土山古墳和爾下神社古墳櫟本墓山古墳の順で築造されたと考えられています。

おすすめ度 (☆4.0)

★所在地:天理市櫟本町

★墳形:前方後円墳、全長約130m、後円部径約80m、高さ10m、前方部幅50m。前方部を北に向け、墳丘全面に葺石あり。

★埋葬施設:後円部中央に設置された墓壙は主軸にほぼ平行し南北12m、東西6.5~8m、深さ3mと推定され、中には粘土槨で包まれた全長6~7m、幅約1mの巨大なコウヤマキ製の割竹形木棺があったと思われます。尚、埋葬時、木棺を収めた後、粘土で覆う途中2度にわたり朱(酸化鉄)が塗られた形跡がありました。

★出土遺物:墳丘裾と中腹で埴輪列、墳頂で形象埴輪片見つかっています。粘土槨は激しい盗掘にあっていましたが、棺内から鍬形石27個、車輪石26個、石釧2個、玉類が見つかり、特に鍬形石は我が国最多の出土例です。棺外については粘土槨と墓壙の間から多量の鉄剣、鉄刀、銅鏃、槍、巴形銅器の他、革製の短甲、草摺が出土し、特筆すべきは、三葉環の1振の棟部に後漢の末の年号(中平)が金象嵌された太刀が見つかり卑弥呼との関連も注目されています。

★築造年代:4世紀中頃

★発掘調査:1961年~1962年(発掘調査)2008~2009年(墳丘再測量)

★被葬者:和珥氏の先祖(和珥氏は5~6世紀に大王の外戚として勢力を持った有力豪族)

 

その他

50年前の発掘調査後、副葬品は1972年に重要文化財に指定されました。発掘調査報告書は種々の理由で遅延していましたが、半世紀が過ぎた2010年に、関係者の努力で刊行され、これに加え、平城遷都1300年、天理参考館創立80周年を記念して、東京国立博物館に所蔵されている出土品の里帰りが実現し、2010年10月22日から11月23日まで天理参考館で「よみがえるヤマトの王墓」と題し記念特別展が行われました。

★奈良ソムリエ検定テキスト掲載古墳

 

【参考文献】

・天理の古墳100(天理市教育委員会) 

・よみがえるヤマトの王墓 天理参考館

・東大寺山古墳 天理教城法大協会

・日本の古代遺跡4奈良北部 中井一雄

・遺物が語る大和の古墳時代(泉森皎氏・伊藤勇輔氏)

・大和の古墳を語る(河上邦彦氏ほか)

・山の辺の道の遺跡を訪ねて(天理市教育委員会)

・古代史おさらい帖(森浩一氏) 

 

行き方