あかつちやま

赤土山古墳

 東大寺山古墳群では東大寺山古墳和爾下神社古墳と並ぶビッグ3の一角を占める大型古墳。長らく国史跡に伴う整備が行われていましたが、2010年に整備が完了し公開されています。古墳内には園路が造られ、古墳本体は自然地形を残し、発掘調査で成果があった部分のみ復元整備されています。解説板は写真や図板を入れてわかり易く書かれています。1989年の発掘調査時の写真もご覧ください。(筆者撮影)          

おすすめ度(☆4.0)

★所在地:天理市櫟本町

★墳形:前方後円墳(全長は残存長106.5m)前方部を西に向け2段築成である。葺石あり。埴輪は墳頂部と中段のテラス面の2列と墳頂部には形象埴輪片が見つかったほか、後円部先端に造り出しが存在し、その南側には珍しい家型埴輪祭祀遺構がある。この遺構は当時の自然地形をジオラマで表現してるが如く、葺石で地形を表現し、そこには古代の豪族の居館を思わせる家形埴輪が11棟、囲み形埴輪が1棟ほかがあり祭祀との関わりが考えられる貴重な遺構であり、整備復元し公開されている。

補足:現在、前方後円墳で確定しているが過去二転三転している。参考までに記すと

1958年→橿考研?の踏査では全長109mの前方後円墳と推定されていた。

1974年→天理大の置田教授が考古学雑誌に「大和の前方後方墳」として紹介された。

1987年以降の調査の結果後円部東側及び後円部南側でも造り出しが発見され、謎の異型の古墳として話題を呼んだ。(後に後円部南側は造り出しではなく墳丘が崩落した為と判明)以下の新聞記事は当時(1989年頃) の混乱した様子をこう伝えている。

1999年→後円部北側のくびれ部の調査で、埴輪列と葺石が鈍角(くの字)に曲がっているという、決定的な事実が発見され、前方後円墳と判明した。又、後円部の南側は造営後、まもなく地震で崩落し墳丘が半分なくなっている事も判明、この為、崩落面が直線的に残り、前方後方墳と誤認されたようである。尚、研究者の一部では双方中円墳ではとの指摘もあったが主軸から外れており前方後円墳に大きな造り出しをつけたものとして考えるべきである。

★埋葬施設:粘土槨と思われる(崩壊した後円部南側の墳丘裾部から、副葬品の一部と見られる石製品が多数発見され、白い粘土の跡が有った事より)現在も埋葬施設の一部は残存しているが未調査。

★出土遺物:円筒埴輪、家形埴輪、形象埴輪片、石釧、滑石製の玉杖等。(普通、円筒埴輪等は殆ど根底部しか残っていない場合が多いが、この古墳の場合は造営後まもなく発生した地震による地滑りで、埋土と一緒に埴輪がスライドしながら埋まり、自然現象による偶然の産物で割れてはいるものの完形の埴輪が多数発見された。)

★築造年代:4世紀後半から5世紀初頭(東大寺山古墳群の中では東大寺山に次いで造られた古墳))

★発掘調査及び整備:1987~1990年に住宅開発に伴う範囲確認を目的とした発掘調査が実施された後、1992年に国史跡に指定され、史跡整備に伴う確認調査のあと、2006~2009年に整備が実施された。

★被葬者:和爾氏関係 

 

【参考文献】

・天理の古墳100(天理市教育委員会) 

・赤土山古墳(第6次、7次)現地説明会資料

・よみがえるヤマトの王墓 天理参考館

・山の辺の道の遺跡を訪ねて(天理市教育委員会)

・大和の古代遺跡案内(泉森皎氏)

 

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