おびとけ こがねづか

帯解黄金塚古墳

 台地の南縁に位置する終末期の方墳で、明治23年(1890年)に羨道部上半が石材を取り出す為、破壊され補修後、御陵墓参考地に治定されています。石室内部は見ることはできませんが宮内庁が公表している実測図より榛原石の板状の石材を漆喰を用いて磚積した横穴式石室をもつ古墳として知られています。

おすすめ度(☆4.0)

★所在地:奈良市田中町

★墳形:方墳(一辺30m)2段築成。傾斜面上方に当たる東・西・北の3方向に2段の石敷きの空濠と外堤がある。(南辺を除く3辺に最大4mの高さの外堤のある空濠が巡り墓域としては東西約120m、南北70mにも及び終末期古墳としてはかなりの規模を誇る古墳である。)2009年の調査で墳丘の周囲を飾る石敷きが確認された。石敷は2段構造で、北側と西側は下段の幅が約1.6m、上段は約0.5mで、下段との段差は約5cm。径15~20cmの川原石を敷き、上、下段ともに端に石を一列に並べ縁取っている。(南側は過去の調査で下段が幅約6mの石敷が既に見つかっている。)これらの石敷は全国的にも珍しく、寺院の基壇と似ており、影響を受けたとみられている 。又、墳丘の裾部で石を抜き取った形跡があり、築造時は墳丘にも石が積まれていた可能性がある。

★埋葬施設:磚積式横穴式石室(南に開口)全長12.5m、羨道長9.5m。玄室は長さ3m、幅3.3m、高さ2.6mのほぼ正方形で壁は四方とも下から1.6mまで垂直で上方は持ち送っている。羨道部はこの古墳の一番の特徴で羨道部の長さ9.5mを約3mおきに柱状の括れ部で3室に分けたような形になっている。尚、1890年頃、石材取出しで羨道部の上半が破壊された為、修理されており天井石は後補である。陵墓参考地であるが、昔(昭和2年)撮られた石室内部の白黒写真が残っている。これを見ると他の磚積式横穴式石室より一回り大きく羨道部が3室あるように見えることから独特の雰囲気を感じる。尚、羨道部、玄室部共に壁面全体に漆喰が塗られており写真で見る限り部分的に残っている。  

★出土遺物:盗掘されており不明。

★築造年代:7世紀中頃(2009年の調査で出土した須恵器や土師器より)

★発掘調査:2004年、2008年~陵墓指定外を断続的に調査。2004年、2008年に石室前面で石敷が検出された。更に2009年の調査で墳丘の外周にも2段の石敷が見つかった。

★被葬者:不明(舎人親王の墓との言い伝えがあるが舎人親王の時代より古く時代が合わない(舎人親王は735年に死去)発掘した奈良市埋蔵文化財調査Cの見解では推古~舒明天皇の時代に活躍した皇族か、トップクラスの豪族との見解である。この他、石材の権威、奥田尚氏は649年に亡くなった蘇我石川麻呂を候補にあげている。 

 

2009年2月28日 現地見学会速報

 予想外に人は少なく、若干拍子抜けでしたがその分ゆっくりじっくり見れ、いい見学会でした。見学は奈良市の担当者の方々がポイント地点に張り付いて大変丁寧な説明と対応で好感が持てました。特に一人の方があまりに親切に教えてくださるので、名札を見るとなんと発掘の責任者の森下恵介先生でした。新聞には出ていませんでしたが

①発掘区に石室に使われた榛原石が1石見つかっています。多分羨道部が明治時代に破壊された時のもののようです。石室が見れないこの古墳ですがこの石とこの日公開された宮内庁が撮った石室内部の写真で内部の様子が想像できました。

②コの字形の外堤がありますがこれは風水の影響を受けて作られた可能性も・・

③粟原谷、忍坂、宇陀地域に集中している榛原石の磚積式横穴式石室がなぜこの古墳だけが、この地にあるのかなど教えていただきました。(可能性としては、その地の出身とか・・)

★奈良ソムリエ検定テキスト掲載古墳

 

【参考文献】

・天皇陵古墳を歩く(今尾文昭氏)

・奈良市史  

・大和の古墳Ⅰ(森下恵介氏)

・日本の古代遺跡 奈良北部(中井一夫氏).

 ・帯解黄金塚古墳現地説明会資料