ゆきとうげこふんぐん

能峠古墳群

 早いもので発掘調査されてから30数年経ちました。当時発掘調査されているのは知っていましたが、訪ねる機会を逸してしまい2009年6月に初めて訪れました。移築後の年月を感じさせるかのように、それなりに周囲にも同化し、パッと見には移築とは思えない雰囲気です。しかし古墳群周辺には無常にもフェンスで囲いが・・・解説板まであるのに中に入れません。しばらくは誰も入っていない雰囲気です。しかし帰るわけにはいきません。なんとかならないものかと雑草をかき分けていると、扉の横から何とか入れるスペースが・・・立ち入り禁止と書かれてないのをいいことに突入しました。そんな立派な古墳群では無いかも知れませんが、あまり人が入った形跡が無いので移築のわりにはゾクゾク感が十分でスリルがありました。一度見ておかれてもいい古墳群と思います。

おすすめ度(☆3.0)

★所在地:宇陀市榛原上井足

以下全て現地の解説板より引用

 

能峠遺跡群は大和高原南部地区農地開拓事業にともない昭和56年7月から昭和58年10月まで奈良県立橿原考古学研究所によって発掘調査が実施された。南山・北山・西山・中島の四地区が調査され、縄文時代から江戸時代に至るまでの各時期の遺構・遺物が数多く検出されている。なかでも方形台状墓、横穴式石室群、中世墓群は宇陀地方の墓制の移り変わりを考えるうえにおいて重要な位置を占めるものである。南山・北山・西山が墓域であるのに対し、中島は生活の場としてとらえることが出来る。農地造成によりこの遺跡群は消滅することになったため、南山地区の横穴式石室四基、小型横穴式石室八基をここに移築保存した。

●1号墳

東西約13m、南北約14mをはかる円墳である。埋葬施設は右片袖の横穴式石室で全長約7.1m、玄室長約3.8m、玄室幅約1.9m、羨道幅約1.6mをはかる。玄室内には二つの組合わせ式の箱型石棺が置かれ須恵器、土師器、刀、刀子、鏃、銀環などが出土している。この古墳は6世紀後半に築造され7世紀中葉すぎ頃まで追葬がおこなわれていた。又石室内では後世の平安時代前期の木棺墓、鎌倉時代の火葬場が確認されている。

●2号墳

径約8mの円墳である。埋葬施設の横穴式石室は錯乱が著しく奥壁、側壁の一部が残っているに過ぎない。石室奥には組み合わせ式の石棺が置かれ、その南にも棺痕跡が認められた。石室内から刀子、鏃などが出土している。築造時期は3号墳に近い6世紀後半ないし末頃と考えられる。

●3号墳

主幹屋根の東端に位置した径約12mの円墳である。埋葬施設は右片袖の横穴式石室で天井石は撹乱のため存在していない。石室規模は全長約5.7m、玄室長約3.5m、玄室幅1.7m、羨道幅約1.3mをはかる。出土遺物は須恵器、土師器、刀子、鏃、釘などである。この古墳は6世紀~末に築造され7世紀前半までの追葬が認められる。また石室内で1号墳と同様に平安時代前期の木棺墓が検出されている。

●4号墳

南斜面の小石室中、東端に位置し、周溝を有する小型の横穴式石室で径約9.5mの円墳である。石室内及び周辺からは須恵器、土師器、刀、刀子、などが出土している。築造時期は7世紀前半と考えられ、小石室群中最初に築かれたものである。

●11号墳

主幹屋根西南斜面に位置する右片袖の横穴式石室である。石室内には組合わせ式の箱型石棺が置かれ、この中から金銅装板状品が出土している。築造時期は7世紀中頃と思われる。

●5号~10号墳

南山主幹屋根南斜面を中心に位置した小型の横穴式石室群である。いずれも明確な墳丘を持たない古墳で追葬を伴わない単葬墓である。出土遺物はほとんど認められないがこれらの築造時期は7世紀中頃と考えられる。

 

(参考文献)

・葛城の考古学(松田真一編)

 

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