なかおやま

中尾山古墳

 この時期の天皇クラスのみに採用されている八角形墳です。また石槨の構造から火葬墓で骨蔵器が収められていたと思われます。(宮内庁収蔵の古宮土壇出土の金銅製壷はここから出土したものではとの考えもあります。)近くにある高松塚古墳は超有名な古墳ですが、この中尾山古墳は殆ど訪れる人も少なく、ひっそりしています。古墳の格から言えばこの中尾山古墳の方が遥かに立派な古墳なのですが・・。近年周辺の遊歩道には廃線になった路面電車の敷石が並べられ、辺りから小鳥のさえずりが聞こえとってもいい雰囲気でふと時間を忘れさせてくれます。天皇クラスにしか許されなかった八角形墳であることを頭において墳丘をゆっくりとひとまわりすることをお奨めします。 

おすすめ度(☆5.0) 

復元図は「飛鳥を掘る」河上邦彦著より引用

★所在地:高市郡明日香村平田

★墳形:八角形墳、対角長19.5m(墳丘裾の平坦面を含めると約30m)高さ5m以上、段築は1,2段目は大小の大量の石を垂直に積上げた基壇状。最上段の3段目は土を固め盛土のみで八角形を形成した特異な墳丘。以前に墳丘の東側で発見されている沓形石造物の存在から、墳丘上に何らかの装飾が施されていた可能性もある。この辺りは古代の檜隈と呼ばれたところで、続日本書紀は文武天皇が火葬され遺骨は「檜隈安古山陵」に葬られたと伝える。古来、地元では「中尾石墓」と呼ばれ元々墳丘全面が石で覆われ墳丘外周にも二重の敷石が巡っていたが明治14年(1881年)頃、葺石や大きな石材は庭石、建築用、道路石垣などの用材として売却破壊されたようである。

★埋葬施設:横口式石槨(内法1辺90cm四方)は合計10枚の切石で構成され内面は磨き上げられ、赤色顔料(水銀朱)が全面に塗られた中に骨蔵器が納められていたと思われる。

★出土遺物:不明(副葬品の出土はないが墳丘上から沓形石が2石、出土しているが元々墳丘の頂部に飾り物として立てられていた可能性がある。)

★築造年代:8世紀初

★発掘調査:1974~1975年(明日香村・橿考研)、2010年(明日香村)墳丘の再測量が実施されている。2020年(明日香村・関西大)

★被葬者:元禄10年(1697年)の「山陵記録」では欽明陵→元文元年(1736年)の「大和志」では文武陵→明治26年(1893年)の「大和国古墳取調書」では皇極・孝徳朝の貴人→大正3年(1914年)の「奈良県史跡勝地調査会報告書第二回」では文武天皇陵→大正4年(1915年)の「高市郡志科」でも文武天皇陵とされ近年も研究者の間では、ほぼ文武天皇で一致している。

★奈良ソムリエ検定テキスト掲載古墳

 

【参考文献】

・天皇陵古墳を歩く(今尾文昭氏)

・飛鳥の発掘(網干善教氏) 

・大和の古墳を語る(伊藤勇輔氏ほか)

・日本の古代遺跡 奈良飛鳥(菅谷文則氏)

・牽牛子塚古墳発掘調査報告書(明日香村教育委員会)

 

2020年11月現地見学会


2020年11月26日に発表があり中尾山古墳は八角形墳と確認したと発表されました。一応新聞の一面には掲載されたものの扱い的には牽牛子塚古墳などに比べると三分の一程度。それもそのはず今回の発掘は世界遺産認定に向けての調査で目新しい成果は少ない。(前回調査時すでに石槨の内部の写真も公開済み。)

それよりもこの古墳も牽牛子塚古墳などのような、令和の古墳になるのではと危惧しています。築造当時に復元はいいので、1300年の歴史を感じさせてくれる墳丘であってほしいと思うのは私だけでしょうか。世界遺産のために明日香がどんどん姿を変えています。

 

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