てんむ・じとう がっそうりょう

天武・持統合葬陵(野口王墓古墳)

  古墳時代の天皇陵では数少ない被葬者が、確定できる古墳です。日本書紀によると、687年に前年亡くなった天武天皇のために草壁皇子によって築かれ、後年(702年)に亡くなった持統天皇は天皇家として初めて火葬され、銀製の骨壷に納められ703年に合葬されたとあります。束明神古墳(天武・持統の息子である草壁皇子の墓として有力)の石室は天武・持統合葬陵の張石として切り出された一部が使われている可能性がある事や、藤原京(奈良県橿原市)の南北中軸線の延長上に八角墳の天智天皇陵(京都府山科区)と天武天皇陵(奈良県明日香村)が築かれている事でも知られます。被葬者が天武・持統天皇とほぼ確定出来る事や、過去の盗掘記録から内部の様子もある程度うかがい知ることができる為、イメージしやすく、天皇陵でありながら身近に感じる古墳です。

おすすめ度(☆5.0) 

所在地:高市郡明日香村野口

★墳形:八角墳(墳丘裾の一辺15m前後、対辺間の距離37m、高さ約7.7m)1235年の盗掘時の調査記録である「阿不幾乃山陵記」と、藤原定家の「明月記」に内部の様子が詳細に書かれており、「続日本書記」の持統天皇の葬送記事とも一致しています。特に阿不幾乃山陵記には、当時から八角墳と書かれており、1970年の外形測量で八角墳の可能性が指摘され、現墳丘よりも外側に大きくトレンチを設定したところ、石列による八角の2辺を検出し8角墳と確定されました。

★石室:横口式石槨は内陣(玄室に相当)の壁は朱塗りで長さ4.2m、幅2.8m、高さ2.4m。外陣(羨道に相当)は長さ3.5m、幅2.4m、高さ2.2mで全長は約7.7m。内陣と外陣は両開きの金銅製の扉で仕切られている。

★棺:朱漆りの爽紵棺(天武天皇)金銅製の骨蔵器(持統天皇)

★出土遺物:盗掘時(1235年)に石御帯、玉枕があったという。

★築造年代:7世紀末

★発掘調査:1959年、1961年(宮内庁)尚、2014年に研究者による立ち入り観察が行われた。       ★被葬者:天武天皇・持統天皇 

★奈良ソムリエ検定テキスト掲載古墳

 

【参考文献】

・歴史検証 天皇陵 天武・持統天皇陵(今尾文昭氏)

・阿武山古墳と牽牛子塚(今城塚古代歴史館)

・天皇陵古墳を歩く(今尾文昭氏)

・「天皇陵」総覧 天武・持統合葬陵(柳澤一宏氏)

・日本史の中の古代天皇陵(茂木雅博氏)

・牽牛子塚古墳発掘調査報告書(明日香村教育委員会)

・日本の古代遺跡 奈良飛鳥(菅谷文則氏) 

追記

2012年5月18日のNHKニュースで天武・持統合葬陵が取り上げられ「古墳は八角形、50年以上も前に確認」というタイトルで僅か2分ぐらいですが放映されました。以下はNHKのHPから要約。

 

宮内庁が昭和34年と36年に行った発掘調査についての報告書をNHKが情報公開の手続きで入手したところ、古墳の盛り土が八角形だったことが示され、角に置かれた石や斜面に沿って積まれた正方形の石が写真で紹介されていました。八角形の構造は当時の天皇の墓に特徴的なもので、鎌倉時代の文献などで示されていたことを発掘調査が裏付けていたことになりますが、宮内庁は公表していませんでした。これについて宮内庁は「現場の正確な図面がないなど調査が不十分だったので公表しなかった。追加調査をする機会があれば結果を公表したい」としています。一方、宮内庁の陵墓委員で考古学者の河上邦彦さんは「古墳の形がはっきり分かる報告書があったことは、大変な驚きだ。再調査などを行うのが宮内庁の責任ではないか」と話しています」この古墳が八角墳である事は周知の事実ですが、それを明快に裏ずける重要な資料と思われます。余談ですが天武の父親である舒明天皇陵(桜井市忍阪)もご存知の方が少ないと思いますが墳丘の発掘調査が平成4年と平成6年に行われ八角墳のコーナー部の写真や墳丘の貼り石などの写真が宮内庁書陵部発行の書陵部紀要に記載されています。    

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