こやまだ

小山田古墳

 平成26年度に行われた養護学校の改築事業に伴う発掘調査で小山田遺跡から飛鳥時代の大規模な掘割が発見され、当時は一辺50m以上の方墳の可能性が高いと考えられていましたが、第8次調査(平成28年度・2016年度)で墳丘盛土と横穴式石室の羨道部の痕跡が検出され、小山田遺跡は古墳である事が確定しました。墳丘規模は検出された横穴式石室が墳丘上の中軸上にあるとすれば、一辺70mの方墳と推測されます。

おすすめ度(☆0.0)・・・現在見学はできません。

★所在地:高市郡明日香村川原

★墳形:甘樫丘から南に伸びる丘陵上に位置する方墳

★埋葬施設:横穴式石室と思われる。

★出土遺物:溝を造成した土中から6世紀後半の土器類、溝の埋没時の流入土から7世紀後半の土器が出土

★築造年代:7世紀中頃(出土した土器より)

★発掘調査:2014年~

★被葬者:いろんな研究者から被葬者候補が出ている。主なものは以下の通り

・舒明天皇の初葬墓(菅谷文則氏)(猪熊兼勝氏)など

・蘇我蝦夷(白石太一郎氏)(小沢毅氏)など

 舒明天皇の初葬墓説に疑問を呈する研究者も多く引き続き調査、研究が必要。

 

経過

第5・6次調査(平成26年度・2014年度) (2015.1.18現地説明会)

平成26年度(第5次調査)に実施された県立明日香養護学校の教室棟改築事業に伴う発掘調査で小山田遺跡から飛鳥時代の大規模な掘割が発見された。一辺50m以上の方墳と考えられる。橿原考古学研究所によると「榛原石」で墳丘を覆う古墳は、7世紀中頃に限定され、この時期に蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(一辺約50m)を上回る規模の墓をつくれる人物としては舒明天皇(641年没)が考えられる。舒明天皇は日本書記には滑谷岡に葬られ、後に押坂(桜井市忍阪)に改葬されたと記載されており、不明であった初葬墓がこの古墳である可能性が高いという見解が出された。ただ研究者の間では当時の権力者、蘇我蝦夷の名前なども挙げられており今後、論議をよびそうである。

 

第7次調査(平成27年度・2015年度) (報道発表のみ)

大規模な造成跡を確認。

 

第8次調査(平成28年度・2016年度) (報道発表のみ)

調査は墳丘南端部の様相と石室の有無の確認を目的に行われた。主な成果は①墳丘盛土と横穴式石室の羨道部の痕跡が検出され小山田遺跡は古墳である事が確定した。②墳丘規模は今回検出された横穴式石室が墳丘上の中軸上にあるとすれば一辺70mの方墳と推測される。

 

第9次調査(平成29年度・2017年度) (2017.8.26現地説明会)

今回の発掘調査で、石室の一部で羨道跡が新たに確認された。幅が2.6メートル、長さが8.7メートル。今回の調査では玄室は確認されなかったが橿原考古学研究所の鈴木一議主任研究員は、「当時の方墳では石舞台古墳の石室が最大だがそれに近い規模になる可能性がある。」としている。

 

第10次調査(平成30年度・2018年度) (2019.2.3現地説明会)。

今回の調査で、墳丘西端部のテラスと、地表下3m付近から約50度の傾斜がついた斜面が初めて確認され、これまでの調査で約70mと想定されていた墳丘の東西幅は、80mを超える事が判明した。これにより従来、飛鳥時代最大とされていた千葉県の岩屋古墳(同約78メートル)を上回る飛鳥時代最大の方墳であることが確実となった。また榛原石などの石材も大量に出土し、西側斜面も北側と同じく石材で覆われている事も分かった。古墳は約72mの北辺に比べ、南辺がやや長い台形とみられる。