ごじょうのまるやま

五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)畝傍陵墓参考地

  1991年に偶然開口部が開いているのを子供が発見し、その父親が撮った写真がマスコミに流れ大騒ぎとなりました。しかし幸か不幸かそのお陰で長い間ベールに包まれていた石室内部が間接的ではあるが明らかにされ、 石舞台古墳の規模を全ての面で上回る、日本最大の横穴式石室である事がわかりました。羨道部の石材は、うしろ半分は玄室と同じ飛鳥石に対し、前半分は同じ花崗岩でも系統が異なり、石積みも雑になっています。この事は追葬時に羨道部が改修された可能性を示していると当時の新聞記事は伝えています。玄室内には石棺が2基おかれ、棺蓋は奥棺は低平で前棺は高く、共に縄掛突起が短辺各1個、長辺各2個の計6個がついています。大きさは前棺の方が大きく、長さが2.9m、幅が1.4mもあり長い間封鎖されていた関係であまり痛んでいない様子です。現場を見られた河上邦彦氏は「作られて間もない棺のようにも見える」と記されています。この石棺での最大の謎は新しい石棺(7世紀前半)が奥で、古い石棺(6世紀後半)が前に置かれている事です。いろんな論議が行われていますが結論は?

おすすめ度(☆5.0) 

★所在地:橿原市五条野町・大軽町 ・見瀬町

*当古墳は3町にまたがっており以前は,見瀬丸山古墳と呼ばれていましたが、近年は後円部のある五条野町の名前を取って五条野丸山古墳とよばれる事が多い。 

★墳形:前方後円墳(全長318m、後円部径約150m、前方部幅210m、後円部高さ約21m)墳丘全体の大きさは奈良県では1位、全国でも6位。この時期の古墳では日本最大。 

★石室:両袖式横穴式石室(全長約28.4m、玄室長8.3m、幅3.6~4.1m、高さ3.9m以上。羨道長約20m、幅1.4~2.5m、高さ1.3m以上)(注)高さは堆積した土が約1mあるので実際は+1m。 

★棺:凝灰岩(竜山石)刳抜式家形石棺2基(前棺6世紀後半、奥棺7世紀前半)

★出土遺物:不明

★築造年代:6世紀後半

★発掘調査:未

★被葬者:蘇我稲目説,欽明天皇説など

★奈良ソムリエ検定テキスト掲載古墳

 

【参考文献】

・継体天皇とヤマト(橿原考古学研究所付属博物館)

・天皇陵古墳を歩く(今尾文昭氏)

・古墳の被葬者を推理する(白石太一郎氏)

・大和の古墳を語る(泉森皎氏ほか)

・飛鳥を掘る(河上邦彦氏)

・日本の古墳と天皇陵 「陵墓限定公開の成果と問題点(宮川渉氏)

・王者のひつぎ(狭山池博物館)

・日本の古代遺跡 奈良飛鳥(菅谷文則氏)

・大和の古墳Ⅰ 明日香・南葛城地域の古墳(藤田和尊氏)

・大和国古墳墓取調書(野淵龍潜編)

・古墳の謎(田辺昭三氏)  

行き方 

 後円部頂のみが陵墓参考地で、その他は国指定史跡。墳丘部だけで310mもある奈良県下では一番大きな古墳で,後円部の陵墓参考地の指定箇所以外は見学可能。ただ夏場は雑草が生い茂り、後円部の解説板までたどり着くのがやっとの時もあります。一昔前の昭和40年代には前方部の一部に民家まであったのですが、周辺の土地買収も含めかなり整備されてきています。被葬者論争の盛んな古墳ですが、箸墓古墳の被葬者探しとは違う面白さがあり興味深々!!昔は欽明天皇、堅塩姫説が有力だったのですが・・・欽明天皇陵とすれば、日本書記に記された葺石の痕跡が見つかってない事や、この地が古くからも桧隈(ひのくま)とよばれていないのが引っかかるのですが・・・