みぬのおかまろ

美努岡萬墓

 近年の開発で周辺はすっかり住宅街になり、こんなところに墳墓が・・・と思うような所にあります。墓誌が出土したことで知られています。香芝市出土の威奈大村骨蔵器銘文や、高槻市出土の石川朝臣年足墓誌、と共に銘文内容が優れた優品の一つとされています。なお現物は現在、東京国立博物館に所蔵され、重要文化財に指定されています。現地には見所と言えるものはないかもしれませんが、銘文から美努岡萬の人となりを想像しながら見学すれば、それなりのロマンに浸れるのではないでしょうか。ところで古墳時代を過ぎた頃の墳墓は古墳のような盛土がない為に、農作業中に偶然見つかるケースが多く、闇に埋もれて消えてしまったケースも多いと考えられ、奈良時代の高級官僚の埋葬方法を知る上で極めて重要です。 

おすすめ度(☆3.5) 

★所在地:生駒市萩原町字竜王

★発見された経緯 :今は周囲が住宅地になっているが、発見当時は丘陵地であった。 地元の青年、萩本忠平氏が明治5年(1872年)、自宅のかまどの塗土を採取中に、墓誌を掘り当てた。(墳墓であることは当時の記録からわかるが、火葬墓かどうかは不明であった。)

★埋葬施設:火葬墓(1958年の調査で判明)

この場所はもともと「竜王塚」と呼ばれる高さ約60cmの小さな高まりを持った場所で、発見地点は、この墳丘のほぼ底にあたる。墓誌は東西方向に水平に埋められていたようである。

★出土遺物:墓誌のほかには遺物は見つかっていない。墓誌は縦30cm、横21cm、厚さ3ミリの矩形の銅製で墓誌の表面に縦十条、横十六条の罫を引き、計173文字の銘文が刻まれている。 銘文によると、美努岡萬は天武天皇13年(684年)に連姓をたまわり、文武天皇の大宝元年(701年)唐に派遣され、元正天皇の霊亀2年(716年)従五位下の官位を授かり、主殿寮頭に任命された。そして聖武天皇の神亀6年(728年)67歳で、生涯を閉じたことが記されている。尚、墓誌は死後の2年後の天平2年(730年)に作られたものである。

★築造年代:728年(墓誌より)

★発掘調査:昭和58年に現地は造成工事で取り壊される計画があったが、墓誌の発見場所の再確認の為、橿原考古学研究所で調査された。その結果、この場所から明治5年に埋納された模造墓誌と炭化木が検出され、墓誌の発見場所が再確認され、改めて保存処理が加えられた。

★被葬者:美努岡萬

★奈良ソムリエ検定テキスト掲載古墳

 

【参考文献】

・日本の古代遺跡 奈良北部(前園実知雄氏)

・大和の古墳を語る(伊藤勇輔氏)

 

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