ひふりやま

火振山古墳

 この古墳は1975年頃橿考の友史会のOさんより、「奈良県遺跡地図に記載されていない古墳らしい小山がある」と橿原考古学研究所に連絡があり、現地踏査の結果古墳であることが確認されました。古墳名は、当初小字名より火振山古墳とされましたが、当時の新庄町長より、この地名は古くからコウ塚(小塚もしくは神塚)と呼ばれているとの申し入れがあり、新庄神塚古墳とされたのですが、どういうわけか、近年は火振山古墳と呼ばれています。現状は 墳頂部をはじめ古墳全域が畑地として使われていたようでかなり削平されていますが、主体部の痕跡すら確認されていないのは、竪穴式ではなく粘土槨で、首長墓ではない可能性も考えられます。特別な見所はありませんが葛城地域の首長墓を考えるうえでは、抑えておくべき古墳と思われます。

おすすめ度(☆2.5)

★所在地:葛城市南藤井

★墳形:葛城山系から北東に派生する尾根の先端に作られた前方後円墳。全長約90m、後円部径約50m、前方部幅約40m)で北北西に前方部を置く。

★埋葬施設:不明

★出土遺物:円筒埴輪の小片。

★築造年代:古墳時代中期(見つかった円筒埴輪は、突帯が強く形成されていることから屋敷山古墳掖上鑵子塚古墳より古い様相を示し、室宮山古墳の後に続く首長墓の可能性がある。

★発掘調査:なし

★被葬者:不明  

             

メモ

葛城市のHPには以下のように紹介されています。

 

作られた時期は、古墳時代中期後半(西暦450年~500年)頃と考えられています。時期や古墳の大きさなどから、古代豪族葛城氏の墓の一つと考えられています。火振山古墳の火振山とは、文字どおり「火を振る山」という意味です。これは古墳時代より後の飛鳥時代の頃、この古墳の上に明日香の都を防衛するために設置された、のろし台のようなものがあったからと推測される。 

 

 

【参考文献】

「ヤマト王権と葛城氏」(近ツ飛鳥博物館)

・発掘 葛城山麓の古墳(葛城市歴史博物館 

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