くびこ

首子古墳群

二上山山麓の旧当麻町は古代の交通の要所として早くから文化の栄えたところでです。この首子塚古墳群は牡丹で有名な石光寺や国宝の曼荼羅で知られる当麻寺の中間に位置し古くから「首子七塚」として知られ県指定史跡にもなっています。ただ墳丘そのものは削平されたものが多く現在、現地で確認できるのは4基のみで、いずれもこの地の豪族、当麻氏関連の墳墓と思われます。築造は6世紀初~7世紀中頃。

おすすめ度(☆3.5)

★ 所在地:葛城市染野及び葛城市加守 

 

●首子1号墳・・・別名、櫟山古墳。円墳で現状は径10m、高さ3m。元々は径約18m、高さも約5m程度あったと思われます。埋葬施設は1953年、墳丘頂部の土取り中に偶然、三体の人骨が、家形石棺に直葬されているものが発見されました。更に1978年に行われた再調査で、両袖式横穴式石室(玄室長3m、幅1.5m羨道長2.95m、幅1.05m)が直葬棺に隣接した場所で発見されました。この横穴式石室から、副葬品として金環・棗玉・素玉・須恵器が出土しました。石棺は既に失われていましたが、凝灰岩の破片が玄室内から出土しており、凝灰岩製組合式石棺の可能性が高いと思われます。築造時期は石棺直葬したものが6世紀中頃、横穴式石室が世紀後半と考えられます。

 

●首子2号墳・・・墳丘は削平され現状は水田になっていますが、一辺15mの方墳と思われます。埋葬施設は既に破壊されたと考えられ、周辺に石材が無いことより木棺直葬と思われます。丘尾を切断する形で溝が半円形に巡り、溝内から円筒埴輪片、家形埴輪片、須恵器が出土し、土器の様式から6世紀中頃の古墳と思われます。 

●首子3号墳・・・現状は、ほぼ方形状の竹薮として残存していますが、削平され墳形は不明。埋葬施設は出土した鉄釘(237mm)から組合式木棺の直葬と思われます。副葬品としては鉄製武器(鉄刀等)が保存状態良好で見つかっています。築造年代は6世紀中頃と考えられています。

●首子4号墳・・・現状は古墳の残骸が一部残る程度で1辺約27m、高さ約4~5mの方墳と思われます。発掘の結果から埋葬施設は片袖式横穴式石室と判明し、家形組合式石棺の底石の一部が出土していますが、石材が殆ど抜かれています。玄室長は約4.4m、幅約2.5m、羨道部長約2m以上と思われます。副葬品は須恵器のみ。築造時期は6世紀後半と考えられています。

●首子5号墳・・・墳形は円墳もしくは帆立貝式で「首子塚」と呼ばれいます。帆立貝式とすれば全長25m、後円部径20m前後。円筒埴輪列を持ち、この古墳群では一番大きく当古墳群の盟主的存在です。埋葬施設は未確認ですが木棺直葬、築造時期は6世紀前半と考えられています。
●首子6号墳・・・東西23m、南北11m、高さ2mで現状は畑で、形状から元は古墳の可能性が強いものの、発掘調査時には古墳の痕跡は検出、出来ていません。

●首子7号墳・・・1辺17mの方墳とされていたが後年の調査で寺院跡と判明。

●首子8号墳・・・径12mの円墳で埋葬施設は横穴式石室(全長7.4m、玄室長3.7m、幅1.37m、羨道幅1.06m)であるが石室そのものは殆ど破壊され石室の1段目の一部及び凝灰岩製組合式家形石棺の底石が残っていた他、須恵器、土師器、金環、鉄鏃、飾鋲等が出土しています。

●首子9号墳・・・古墳時代の須恵器片が検出されるも古墳かどうかは不明。
●首子10号墳・・・現状は水田となっており墳丘は早い時期に削平されており副葬品等も不明ですが、墳丘裾の調査で径13mの円墳と判明しています。築造時期は須恵器の砕片のみでよくわからないが6世紀中頃ぐらいと推定されています。

 

★奈良ソムリエ検定テキスト掲載古墳

  

【参考文献】  

・大和の古墳を語る(泉森皎氏ほか)

・ 首子遺跡発掘調査報告

 

行き方

古くから知られた古墳群です。現存しているのは4基のみですが、その殆どが墳丘は削平され埋葬施設は破壊されています。わずかに残る埋葬施設も調査後埋め戻され、写真のような墳丘の姿を見るしかなく解説板も5号墳のところに3種類ありますが非常に見ずらい判りづらいものでした。それぞれ墳丘の上には上れますが特に見所はありません。でも一応奈良県の史跡指定です。(当麻氏との関連で指定されてるのか??)