すしゅん

崇峻天皇陵

 この崇峻陵が古墳かどうかについては、ほとんどの研究者は否定的な立場で、明治22年まで崇峻陵とされていた赤坂天王山古墳(1号墳)こそ真の崇峻天皇陵であろうという見解です。現陵は墳丘図を見てもわかるように直径約35m、高さ約1mの円形の高まりは認められますが、立地や規模からも古墳の可能性は少ないと思われます。墳丘の高まりは元々この場所(天皇屋敷と呼ばれていた)にあった観音堂という寺の土壇の可能性が高く、当時の埋葬形式である横穴式石室の痕跡が全く見られません。これに対し赤坂天王山古墳は被葬者の没年と築造の時代がほぼ一致し(6世紀末~7世紀初頭)その規模(大型方墳)からも、天皇陵の可能性が高いと言えるでしょう。 

おすすめ度(☆0.5)・・・古墳ではないと思われるので

★所在地:桜井市倉橋

★墳形:不明(古墳では無い可能性大)

★埋葬施設:不明

★出土遺物:全く見つかっていない。

★築造年代:不明

★調査:未

★被葬者:不明

 

メモ

崇峻天皇は欽明天皇の第12子で母は蘇我稲目の女、小姉君(おあねのきみ)。日本書紀によると蘇我馬子に擁立され倉橋に宮殿を置き政務をとっていました。即位後5年の崇峻5年10月(592年)献上されたイノシシを指さし「いずれこの猪の首を斬るように憎いと思う人を切りたいものだ」と側近に漏らした事が、馬子の耳に入り、憎い人とは自分の事ではないかと恐れ、部下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を差し向け暗殺をはかり、その日のうちに「倉橋岡陵」に葬ったといわれています。一般に延喜式では陵墓の兆域と陵戸が書かれていますがこの崇峻陵に関しては無く特異な例になっていますが、これは天皇暗殺と即日埋葬とからこうなったと理解されています。

                                       

 【参考文献】

・天皇陵総覧 崇峻天皇陵(柳澤一宏氏) 

 

行き方

第32代崇峻天皇の倉梯岡上陵(くらはしのおかもへのみささぎ)は倉橋のバス停から南に下った倉橋川沿いにあります。