ふみのねまろ

文祢麻呂墓

  奈良時代の高級官僚の埋葬方法を知る上で極めて重要な墳墓です。墓誌が発見された時の状況は当時の奈良奉行所の届書によると、1831年(天保2年)墓の西側に住んでいた常七という人が畑を耕している時、クワの先に銅箱を引っ掛け、位牌(墓誌)が見つかり、更に右側を掘った所、炭の間から金メッキの施された金銅製壺型外容器が見つかり、その中からガラス製骨蔵器(ガラス壷)が発見されました。骨はガラス壷に石灰のように、こびりついているだけだったようです。遺物は近くの龍泉寺観音堂に安置されていましたが、1878年帝室博物館(現在の国立博物館)に収蔵され1952年に国宝に指定されています。 

おすすめ度(☆3.5) 

★所在地:宇陀市榛原 八滝

★埋葬施設:墓は遺物を取り上げたあと埋め戻されました。その後、昭和のはじめに石碑が建てられ顕彰されてきましたが、実際の墓の位置は再調査の結果、盛塚の東方3mの地点から堅炭の入った墓壙とそれを覆う粘土層が発見された事より若干現位置からずれていた事がわかりました。

★出土遺物: 墓誌を入れた銅箱、ガラス製骨蔵器を納めた金銅製壺型外容器、鉄釘2本(恐らく銅箱と金銅製壷を収めた木箱のものと考えられます)墓誌は青銅製で、縦26.2cm、横4.3cmの短冊形の薄板で表面に2行17字詰めで、祢麻呂の官職と位階、没年月日を記した簡潔な墓誌銘を刻まれています。「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒」 この銘文によると、文祢麻呂は707年(慶雲4)9月21日に左衛士府の長官の職で没し、正四位上の位階が追贈された。冒頭に「壬申年将軍」とあるように、大海人皇子の舎人として活躍した壬申の乱の功臣で、「日本書紀」にもその名が見える人物です。

★築造年代:707年(墓誌より)

★発掘調査:1982年国の指定史跡にするための墓壙確認調査が行われ墓壙の位置が確定。

★被葬者:文祢麻呂 

★奈良ソムリエ検定テキスト掲載古墳

 

【参考文献】

・大和の古代遺跡案内(泉森皎氏)

・日本の古代遺跡 奈良中部(寺沢薫氏)

・大和の古墳を語る(泉森皎氏ほか) 

 

行き方

八滝というひっそりとした山村の丘陵上にあります。八滝のバス停を降りても行き先表示がなく通りがかった方々に聞きながら探索しました。墳墓の周辺近まで来ると行き先の看板が結構あるのですが・・・坂道はありますが道路はほぼ舗装されています。墳墓は解説板も完備し綺麗に整備されていますが、墳墓の石組みと盛土が取ってつけた作り物のような感じがするのが残念です。いつも思うのですが、もう少し発見当時の雰囲気を残す保存方法は無いものでしょうか?