うえやま

植山古墳

  1墳丘2石室の「双室墳」は、推古朝前後(6世紀末~7世紀前半)に限られた特異な古墳で、このタイプでは最大級の規模です。特筆すべきは、東石室には阿蘇ピンク石の刳抜式石棺を納め、西石室は石棺は失われていたものの玄門入口に、他に例を見ない閾石を伴う扉施設が設置されていることです。日本書紀や古事記から、推古天皇の初葬墓の可能性もある古墳でありロマンが広がります。

おすすめ度(☆5.0)石室見学可能であれば 

★所在地:橿原市五条野町字植山

★墳形:古墳北側背面をカットした、山寄せの長方形墳、東西約40m、南北30m、墳丘の主軸をほぼ南北に置く。墳丘残存高約3~6m、墳丘の東・北・西にはコの字形に濠が巡り、北から西にかけての濠路底には、幅約1mの石敷き(緑泥片岩と花崗岩製)がある。尚、葺石や貼り石はなし。

●埋葬施設

南側に入口を向ける2基の横穴式石室を持つ双室墳で、墳丘背後の丘陵稜線上には新旧2時期の柱列の痕跡が見つかっており、墓域を明示する塀のようなものがあったと考えられています。(この墓が特別な区域として築造後も維持管理されていた事を示す事例と考えられます)尚。調査で横穴式石室の入口が、盛土で密封されている事がわかりましたが、これは特異な例で通常、横穴式石室は石積であり、市教委は「当初は石で閉塞したが、被葬者を改葬後、役目を終えた石室を盛り土で封印した可能性もある」と推測しており推古天皇・竹田皇子の合葬墓説を補強するものと言えるかと思われます。

●東石室 開口部は南側

★石室:両袖式横穴式石室(全長13m)玄室長6.5m、幅3.1m、残存高約3.1m。羨道長6.5

m、幅1.9m、残存高2.2m。床面に石組の排水溝を持つ。 

★石棺:刳貫式家形石棺(阿蘇ピンク石)6箇所に縄掛突起あり

★出土遺物:玄室排水溝から金銅製歩揺飾金具、鞍、水晶製三輪玉等

★築造年代:6世紀後半

★被葬者:竹田皇子説

 

●西石室 開口部は南南東

★石室:両袖式横穴式石室(全長13m)玄室長5.2m、幅2.5m、高さ約4.5m。羨道長7.8m、幅2.2m、石室残存高最大約4.5m。羨道床面には石組の排水溝を持つ。玄門部には竜山石製のしきみ石(敷居)があり扉構造を持っていた事が判明しています。

★棺:石棺はなかったが玄室内より阿蘇ピンク岩の破片数点出土。

★出土遺物:須恵器杯身、高杯、長頸壷、蓋が出土。

西石室においては玄門の扉石等は周辺の神社で踏み石等に転用されています。

★築造年代:7世紀前半

★被葬者:推古天皇初葬墓説

★発掘調査:植山古墳は所在する区域が土地区画整理事業内にあった為、橿原市教育委員会で2000年と2001年に埋葬施設、墳丘共に発掘調査、2009年には史跡公園整備に伴う丘陵の調査。また2012年には墳丘前面の調査が行われました。

 

★奈良ソムリエ検定テキスト掲載古墳 

現在植山古墳の石室は見ることはできませんが、西石室に使われていた石材が周辺の神社で見ることが出来ますので探してみるのも面白いかと思います。


※参考までにこれまで、この古墳がどう扱われてきたか、たどってみると・・

大和古墳史(大正12年発行)には次のように紹介されています。(要約)

白橿村大字五条野字植山の小高い山林中にある南面した古墳で、現状は長方形墳であるが元は円墳と思われる。石室は一部石材が露出しており五条野区長の話によると、石室の天井石はかなり大きいものであったようだが、今から30年程前に、村人達が橿原神宮の造営時に持ち出し、手水鉢に再利用したとの事で同神宮の正面西側にある物がそれらしい。石室の奥の3石は大石で東側には9石の大石がある。古墳の周囲は全部松林で、その間に小笹が生えている。この古墳からの眺望は素晴らしく五条野の民家の大半を一望できる。明治維新前までに盗掘されていたらしく、子供たちの格好の隠れ家だったらしい。この古墳についての伝承は特になく、現状は五条野地区の共有となっており植山古墳と記された標木があるだけである。

 

以上ですが、石棺の事については何も触れられていません。その後、平成の時代となる頃には古墳名さえあやふやで、例えば平成6年発行の「日本の古代遺跡7奈良飛鳥」という本には「八島神社東方の古墳」と題し、次のように紹介されています「丸山古墳から岡寺への県道を行くと、その左側の竹林中に2基の小型の横穴式石室がある。うち1基の石室は完存しており、玄室の長さ3m、幅2mを測る。この周辺も古墳の少ない場所であるので注目してよい。」と簡単に紹介されているに過ぎません。

 

発掘調査前の橿原市のHPによると、古墳は2基あり両者が接するところでは周濠の一部が共有され、また、墳丘の北背面は大きく掘り込みされ、2基でセットをなしていた様子が伺えるが長方形墳ではなく円墳2基と考えられている。また明治から昭和のはじめに橿原神宮整備にともない、石室の石材の多くが持ち出されたため、東側の古墳石室は無くなっているとの認識であったが、発掘調査で破壊はされていたものの、石室と石棺が発見されています。

 

こうしてみて見ると大正時代には比較的知られていた古墳ですが、いつの間にか忘れられた古墳になり、研究者の間でさえ、こんな立派な古墳との認識はなかったような気がします。事実、発掘前の植山古墳を紹介した一般書は小生の知る限り上記の「日本の古代遺跡7奈良飛鳥」以外、皆無でした。 

 

 【参考文献】

・大和の終末期古墳(河上邦彦氏)

・飛鳥を掘る(河上邦彦氏)

・古墳の被葬者を推理する(白石太一郎氏) 

・石の考古学(奥田尚氏)


追)

2020年10月に訪れました。入口近くで工事業者が整備工事をされていましたが、古墳部分はすっかり忘れられた状態シートが被った状態で中で何かされている様子はありませんでした。

行き方 

 2000年以降、断続的に史跡公園整備に伴う丘陵部分の調査が行われ、2010年に最初の現地説明会以来10年ぶりに石室が公開されました。ただこの時は主体部はブルーシートの覆屋で保護された上、石室内は石材の崩落を防ぐために補強用の木材が至る所にあり大変見にくく、工事現場の中に古墳があるという雰囲気でした。そして2012年12月15日に古墳の南側にあった民家の立ち退きに伴う墳丘前面の調査で覆屋が一時的に外され、発掘当初の状態で見ることが出来ました。今更ながら素晴らしい古墳と実感しました。当古墳の保存方法、将来の公開方法について、もうそろそろ最終の意思決定がなされてもいいかとは思うのですが・・・巨大なドーム型の保護施設が必要で、直ぐにというのは無理としても、靑写真的なものでもあれば、いろんな議論も進むと思うのですが・・尚、覆屋が無い状態で一般公開されるのは、この時が最後とかで・・今は、行っても遠巻きに墳丘を眺めるしかなさそうです。