にきやま

(郡山)新木山古墳

 郡山陵墓参考地として、宮内庁で管理されている富雄川流域最大の前方後円古墳です。墳丘図を見てもわかる様に、西北部の一部は県道の造成で破壊され、数基あったといわれる陪塚も消滅しています。2011年、金魚の養殖池となっている東側墳丘裾の護岸工事に伴う部分的な発掘調査が行われ、同年研究者を対象に陵墓限定公開が行われました。従来この古墳は後円部と前方部の高さがほぼ同じ高さでである事、墳頂部は前期、中期は広いのが特徴ですが、この古墳は、それほど広くない、前方部が開き気味ということから後期古墳と考えられていました。しかし今回の宮内庁の調査で、墳丘裾部で葺石が残る、墳丘の1段目のテラスが水平、前方部、後円部、西側造り出しから祭祀用の埴輪が出土、墳丘も大きく改変されているという事がわかり、築造時期は埴輪片に黒斑がある事からは古墳時代中期として理解するのが妥当となりました。

おすすめ度(☆3.0)

★所在地:大和郡山市新木町丸山

★墳形:全長122m、後円部径67m、高さ11m、前方部幅75m、高さ9m。西側くびれ部に造り出しのある2段築成の前方後円墳。前方部を南南西に向ける。盾形の周濠(現況幅20m・一部残存)が巡っていたと思われる。葺石はほとんど失われており、16世紀末に築かれた郡山城の石垣の裏込石に使われた可能性がある。

★埋葬施設:不明

★出土遺物:不明(かって勾玉類が出土したと伝えられている)2011年の調査で、前方部からも後円部からも円筒埴輪や家形埴輪などの破片が出土。造り出し上部の調査区からは祭祀に使われたと考えられる囲形埴輪や笊形埴輪が出土。

★発掘調査:2011年(宮内庁)墳丘裾部周辺のみ。

★築造年代:出土した埴輪片に野焼きを示す黒斑があった事などから、5世紀中頃に築造された可能性が高まった。

★被葬者:不明

 

【参考文献】

 ・前方後円墳集成 近畿編(/近藤 義郎氏編)

・日本の古代遺跡 奈良北部(中井一夫氏)

・天皇陵古墳を歩く(今尾文昭氏)

行き方