貴重な古墳でありながら、調査終了後に墳丘は削平され、宅地となり今は見る影もありません。外堤の一部と、今は道路となっている周濠に、その面影をわずかに残すだけです。従って見学時には、予備知識を持って自分の中でイメージをふくらませながら、僅かに残る外堤の一部や周濠跡の道路、多少高まりを残す宅地を見て、かっての大円墳を思い起こすしかありません。せめて粘土槨の残りのよかった断面ぐらいは、剥ぎとって残してほしかったとおもいます。これに加えせっかく見つかった、珍しい朱色の紐の鮮やかな痕跡が残る石製合子等の副葬品は、東京国立博物館が保管しています。せめて地元の奈良国立博物館で見れるようにしてほしかったとおもいます。今はもうマエ塚古墳を偲ぶすべさえなく、ここに古墳が有ったことさえ、忘れ去られようとしているのが残念です。
おすすめ度(☆1.0)
★所在地:奈良市山陵町御陵前
★墳形:円墳(径50m、高さ7m)幅13mの周濠と幅28mの外堤を持つ。2段築成。墳丘2段目裾に朝顔形埴輪を含む鰭付円筒埴輪列が一部検出されています。
★埋葬施設:主体部は南北方向に上面で8m×9m、深さ2mの墓壙で基底部に小石を厚さ0.25m前後敷き、この上に厚さ約1mの粘土で覆い、更にその上にベンガラに浸した平織の布を敷いたあと、中央部に朱塗りの割竹式木棺を安置。木棺の外側に幅約0.7mの遺物床と称する段があり副葬品の一部が置かれていました。また木棺の北側に隣接して東西1.15m、南北0.65mの副室が未盗掘の状態で見つかり石製合子はじめ貴重な遺物が検出されています。埋葬施設は他に墳丘斜面から1基、外堤上の3基の埴輪転用棺が検出されています。(調査当時既に過去の盗掘で、墓壙の南辺全てと、東辺の約2/3が破壊されていました)
★棺:割竹形木棺(調査時には幅0.6m、長さ1.3m程度しか残ってなく、副葬列の長さから元々4m以上あったと思われます。)割竹式木棺とは、太い丸太を縦に二つ割りして中を刳りぬき、遺体を納める空洞部分を作っています。(竹の一節分を縦割りにした形を連想させるところからついた名前です)
★出土遺物:棺内→碧玉製石釧片10点(完形1、破片9)副室(棺北側)→仿製鏡9枚(内行花文鏡3面、獣形鏡5面、変形文鏡1面)石製合子2、つぼ形石製品。遺物床→北遺物床で鉄斧9、クワ刃先9、鉄鎌10、西辺で直刀27、剣形鉄器85、刀子2、東辺で剣形鉄器など
★築造年代:4世紀末~5世紀初頭
★発掘調査:1965年~1966年(墳丘部)1972年(外堤部) 県教育委員会、橿原考古学研究所
★被葬者:不明
メモ
・普通よく見られる粘土槨の場合、棺の周辺に接して副葬品を置くか、棺の左右の粘土を厚く延ばしてその上に並べるか、または副室を設けるかですが、マエ塚古墳の場合は棺から1m以上隔て、一段高い(約20cm)平坦面を設け(遺物床と称す)副葬品を置くと共に、副室も設けいずれも厚い粘土で被膜するという非常に丁寧な手の込んだ構造となっています。
・未盗掘の副室から出土した石製の合子は、碧玉という淡緑色の石で作られた高さ8㎝、最大径が7.4㎝の小さな古代の芳香剤入れ?と言われているものですが、蓋の部分に今も朱色の紐の鮮やかな痕跡が残っており、古代のロマンを引き立ててくれる非常に貴重な遺物で一見の価値があります。
【参考文献】
・大和の古墳を語る(河上邦彦氏ほか)
・ヤマト政権の一大勢力(今尾文昭氏)
・天皇陵古墳を歩く(今尾文昭氏)
・大和古墳めぐり(前園実知雄氏ほか)
・考古学点描(河上邦彦氏)
・遺物が語る大和の古墳時代(泉森皎氏・伊藤勇輔氏)
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