まゆみかんすづか

真弓鑵子塚古墳

 横穴式石室の玄室としては全国最大級で床面積は県内では五条野丸山古墳(34㎡)に次ぐ28㎡の広さ(畳18畳分)を持つ古墳です。2008年の見学会から十数年たった今も(2021年12月)封鎖中で、見る事が出来ません。見学会の時点では係員の方が2008年4月頃から見られると言われていましたが、一向にその動きがありません。発掘以前は自由に出入が出来ていたので納得のいく説明が欲しいものです。どうしてもだめなら古墳前にパネルで解説板を作るとか出土品は明日香村の展示室で見られるのでその案内をするとか・・・してほしいものです。 

おすすめ度(☆2.0)・・・入室出来れば5.0

↓ 発掘調査前(2005年10月撮影)

★所在地:高市郡明日香村真弓字カンス塚

★墳形:貝吹山から伸びる屋根を大規模に造成して岩盤を削り出し盛土した円墳(直径約40m、高さ約8m)で2段築成。西側にテラス状の土地があり前方後円墳の可能性も残る。

★石室:片袖式横穴式石室、全長19m以上、玄室長6.5m、最大幅4.4m、高さ約4.7m。使われた石(自然石)は約700個で2~3tの石をドーム状に積上げ一番大きな天井石は推定で約30tある。当初から追葬を意識して設計されており渡来系の同族意識の強さが感じられる。石室床面に排水溝あり。玄室から続く北側に奥室を持つ。従来は南北両方に羨道を持つ珍しい古墳としても知られていたが、北側の羨道と思われていた空間は、閉塞石の状況から奥室と判明した。(通常閉塞石は開口部を途中まで内側と外側の両面で積み内側の工人が外へ出た後、外側から塞ぐが、北側は内側のみで積んでおり積替えの痕跡が無い事より) 

★棺:確定はされていないが明日香村教育委員会の調査結果によると、石室の西側と奥室の床から家形石棺の破片が出土しており、石材から二上山凝灰岩製の石棺が2棺(奥室と袖の所)あったと思われ、他にも緑泥片岩の破片も見つかっており組合式石棺も1棺あったと思われる。更に出土した鉄釘から木棺も1棺以上あった可能性がある。(古墳は6世紀中頃に築造されているが6世紀後半までに数回追葬された痕跡が閉塞石の痕跡から判明している。)

★出土遺物:渡来系氏族の墳墓の副葬品に多いミニチュア土器、金銅製装飾金具、金銅製馬具、銀象嵌の刀装具、土師器、須恵器、玉類、鉄鏃、鉄釘、凝灰岩片、等  

★築造年代:6世紀中頃(石室内で出土した土器より)

★調査の経過

・明治時代にウイリアム・ゴーランド氏が来跡し石室内を計測している(この時は全長10mちょっとで開口部は北側のみと記録されている。)

・1913年(大正2年)に奈良県史跡調査会で羨道部の調査が行われ南側が開口された。ようするに、この時初めて南側が開口された。(全長は15mとされている)

・1962年(昭和37年)後期古墳研究会で発掘調査(石室内の土砂を取り除き計測するのがメインだったようである)出土遺物として凝灰岩片、金銅製装飾金具、金銅装馬具、須恵器が検出。

・2007年~2008年(平成19~20年)史跡指定を目指し初めての本格的な発掘調査を実施。 

★被葬者:東漢氏首長一族の川原民直宮(和田 萃氏)、蘇我稲目(猪熊兼勝氏)

 ★奈良ソムリエ検定テキスト掲載古墳

 

【参考文献】

・大和の古墳を語る(泉森皎氏ほか)

・「明日香村村史上巻」(明日香村)1974年

・「続・明日香村村史(明日香村) 

・飛鳥の発掘(網干善教氏) 

・「飛鳥発掘物語」河上邦彦(産経新聞社

・日本の古代遺跡 奈良飛鳥(菅谷文則氏))

  

2008年2月9日現地見学会

 古くから古墳ファンには人気のある古墳で、発掘調査以前は石室内に自由に出入りできたので入られた方も多いはず。今回は史跡指定をめざす村教委が2007年夏から再調査したとこの時は聞いていました。新聞紙上では「石舞台をしのぐ・・・」という記事が乱れ飛んでいましたが、これは以前から判っていた事で特に目新しい事ではなく、考古学者も含め新発見のように騒ぎ立ててるのに大変違和感を感じると共に、情報の怖さを改めて知った次第です。それはさておき見学会当日は雪が降りしきる底冷えの飛鳥に、新聞発表によると約2100人もの熱心な考古学ファンが集まったようです。普段は真っ暗闇の中を懐中電灯をかざしながら、じわりじわりと今にも上から石が落ちてくるような恐怖と戦いながら石室内に入るわけですが、この日はライトアップされていたので、いつもと違う真弓鑵子塚古墳を見た感じで改めて一級の古墳と実感できました。 

行き方 (封鎖中です。遠巻きに見るしかありません)