こしつかごもん

越 塚御門古墳

 日本書紀の667年2月の記述に「斎明天皇と間人皇女を合葬し、孫の太田皇女を御陵の前に埋葬した」とあります。牽牛子塚古墳はその斉明天皇と間人皇女の有力候補とされてきました。2010年の牽牛子塚古墳の調査で八角墳である事が確定し、更にその可能性が高まりましたが、牽牛子塚古墳=斉明天皇・間人皇女説の唯一の弱点は御陵の前に葬ったとされる太田皇女の墳墓が未発見だったのです。しかし今回、書記の記述通り太田皇女のものと思われる墳墓が見つかるという大発見となり、牽牛子塚古墳は斉明天皇・間人皇女の合葬墓、越塚御門古墳は太田皇女墓の可能性が更に高まりました。現地見学会は2010年12月11日、12日の両日行われ多くの考古学ファンで賑わいました。石槨は大変丁寧な加工がされており、床石などは特に綺麗な加工が施されており、太田皇女に相応しい墳墓かと思われます。なおこの古墳は埋没していたこともあり、無名墳だったのですが、明日香村教育委員会は小字名から越塚御門古墳と名づけました。

おすすめ度(☆2.0)・・・本来は牽牛子塚古墳との関連から☆4.5 

★所在地:高市郡明日香村大字越小字塚御門

★墳形:牽牛子塚古墳の約南東20mに位置するが墳丘は削平されており墳形、規模は不明。牽牛子塚古墳の為に整地された土地の一部を取り壊して造られていることより牽牛子塚古墳より後に造られた可能性が高い。

★埋葬施設:刳り貫き式横口式石槨(石英閃緑岩製)規模は内法長2.4m、幅0.9m、高さ0.6m、推定総重量は約80トン。牽牛子塚古墳と同じく南に開口。床面には幅約2センチの溝をコの字形に設け、排水機能と棺台の範囲を示していると思われる。天井部の大部分は失われているが残存部からドーム状を呈していた事がわかる。又側石の底と床石が接する場所には窪みがあり石材を接合する際のほぞ穴とおもわれる。巨石を刳り抜いて造られたタイプは全国で7例あるが加工精度はトップクラスといえる(ドーム型及び床石の排水用溝等より)なお、石槨の前に長さ4m以上、幅約1mの墓道があり、人頭大の川原石を側石として数石積上げ、その間をバラス敷で詰めてつくられているが、墓道は石槨の中心部からズレており埋葬と同時ではなく続日本書紀に記された699年の改修時に造られた可能性がある。

★棺:漆塗り木棺(石槨内から漆塗片が出土している事より) 

★出土遺物:漆塗片、鉄製品などが少量出土。

★築造年代:7世紀後半

★発掘調査:2010年10月~12月

★被葬者:太田皇女

 

【参考文献】

・牽牛子塚古墳発掘調査報告書(明日香村教育委員会)

・飛鳥・藤原の宮都を語る(相原嘉之氏) 

 

牽牛子塚古墳から南東k20mですが、現在この古墳は整備中?で見学はできません。)   

行き方