この古墳群の中で目玉的存在で桜井市の市史跡にも指定されている1号墳ですが、残念ながら、石室開口部にが土嚢で封鎖され石室内には入れません。この1号墳以外の古墳も消滅、あるいは未調査で見れないと聞いていたのですが、ある時に1基の石室を見つけました。この場所は普段は畑地で柵がしてあるのですが、冬場でたまたま柵が開けられており、自然に足は墳丘へ!そして、そこで雑草に隠れた6号墳の石室を発見!小石室で、半壊状態ですが思わぬ発見に大興奮!まさか赤坂天王山古墳の横にこんな古墳があったなんて感激でした。
おすすめ度(☆3.0)
1999年に市の一般廃棄物最終処分場整備に関わる発掘調査が実施され、内容が明らかになった古墳群です。音羽山から北西に延びる小規模な尾根上に、6基の古墳のほか多数の土坑墓群が存在します。(この古墳群の西側の同一尾根上に有名な赤坂天王山古墳があります)この古墳群で特筆すべきは1号墳が窮窿式(きゅうりゅうしき)又は、ドーム式と呼ばれる極めて珍しい石室で、被葬者は渡来系集団とのかかわりがあったものと思われます。調査されたのは1~3号墳で4~6号墳は未調査。
★ 所在地:桜井市倉橋出屋敷字カタハラ
●1号墳・・・直径13~18mの円墳で、右片袖式横穴式石室を持ち、南西方向に開口しています。現存長は約6m、玄室長3.5m、幅約2m、高さ3m、羨道部長2.5m、幅約1m、高さ1.5m。石材は奥壁が8段程度、側壁が7段程度で構成され、高さ約1.5mぐらいから上部を四方から持ち送り、コーナー部には三角持ち送りの石材を入れ、角をつくらないようし、天井部の面積を狭くした窮窿式(ドーム型)と呼ばれる石室で橿原市の沼山古墳との類似性が指摘されています。築造時期については、出土した須恵器杯蓋、土師器長頸壷や本古墳出土とされる須恵器高杯などから6世紀中頃の築造と考えられています。 (注意)現在は封鎖され石室には入れません)
●2号墳・・・5.3m×4.5mの小型の方墳で、周溝をもち墓坑内には、小口部に板石を配した長さ約1.9mの組合式木棺が納められていました。出土品は鉄釘、周溝から須恵器杯と土師器杯が見つかっており、築造時期は遺物から7世紀初頭前後と考えられています。
●3号墳・・・径約12mの円墳で調査後消滅。南に開口する両袖式横穴式石室で、調査前の時点で、既に羨道部の石材はほとんど失われていました。石室の規模は全長約4.3m、玄室長約3.3m、幅約2mで羨道部は約1mだけ残存(石材抜取り痕を入れると約3.5m)高さは1.3m。石材の構築は奥壁、側壁ともに7段程度で基底石側に比較的大きめの石材を使用し、上部は小型の石材で持ち送りが強い。出土遺物は耳環と土器が数点見つかっています。築造は6世紀後半頃と考えられています。
●4号墳・・・径15mの円墳(詳細不明)
●5号墳・・・4号墳と同様、径15mの円墳(詳細不明)
●6号墳・・・赤坂天王山古墳に一番近いのがこの古墳。半壊しているものの、この古墳群で唯一横穴式石室を見ることが出来る。。奈良県遺跡地図では15mの円墳で横穴式石室で築造は古墳時代後期となっています。(下の写真が6号墳です。)
(6号墳は畑地の中にあり、見学時、持主がおられるときは、お声掛けください。)
【参考文献】
・桜井の横穴式石室を訪ねて(桜井市教育委員会)
・古墳 -桜井市古墳綜覧ー( 小島俊次氏)