さくらいちゃうすやま(とびちゃうすやま)

桜井茶臼山古墳(外山茶臼山古墳)

  国道165号線沿いにあり一目で古墳とわかります。墳丘裾に沿って一部に柵がしてありますが、くびれ部付近で途切れてる箇所があり、墳丘に上ることも可能です。しかし古墳関連イベントで刈られる時以外は、殆んど放置状態で、前方部はもちろん、後円部中央の竪穴式石室(埋め戻されています)の付近まで熊笹が生い茂っており近寄れません。墳頂までいければ三輪山や箸墓古墳の素晴らしい景観が見られるんですが・・・。200m級の多くの古墳が陵墓として立ち入りを制限されている中にあって近くのメスリ山古墳と共に立ち可能な古墳だけに、いつでも入れるようにしていただきたい古墳です。(管理は奈良県教育委員会)(小生も過去数回、熊笹刈りをしていますが少人数では無理)  

おすすめ度(☆5.0) 

引用:墳丘図(橿原考古学研究所)平面図(朝日新聞)

 大和政権初期の大王(おおきみ)の墓の可能性がある桜井茶臼山古墳は、1949年~1950年の第1・2次調査で、後円部墳頂の竪穴式石室が調査され、赤色顔料が一面に塗られた石室から、玉杖や鏡片など多数の副葬品が出土しました。また2009年の再調査では、古墳の後円部の頂上にある方形壇を掘り、埋葬施設との関係を調査した結果、石室の周囲に並べられた二重口縁壺の更に外側で、全国で初の事例となる方形壇を取り囲む巨大な「丸太垣」の一部とみられる柱の痕跡が確認されました。

★所在地: 桜井市外山 (とび)

★墳形:鳥見山から北に伸びる尾根の先端を利用した前方後円墳で全長200m、前方部幅60m、後円部径110m・同高24mで、前方部の開かない柄鏡式の代表的な古墳です。墳丘は前方部2段、後円部3段で、墳丘各段の斜面には葺石があります。埴輪は使用されていませんが後円部墳頂には方形壇を取り巻く壷の列が見られます。 

★埋葬施設:後円部中央に古墳の主軸に沿って南北約11m、東西約4.8m、深さ約3mの長方形の墓壙が掘り込まれ、2009年の調査で、墓壙の上部の方形壇(南北約11.7m、東西約9.2m、高さ1m未満)の周囲4カ所から、幅約1mの溝が見つかりました。いずれにも丸太がすき間なく並んだとみられる柱穴(直径30cm)が計10箇所あり、深さは1.3mで通常はこの2倍程度が地上に出るとされ、未発掘の部分も含め当時は、地上高2.6mの約150本の柱が「丸太垣」として、方形壇を四角に囲っていたと考えられています。「丸太垣」と名付けられたこの垣は石室周囲を邪気から守り、聖域としたと思われます。後の時代の古墳では埋葬施設を埴輪で取り囲むようになるのですが、古墳の系譜や祭祀の変遷を巡る資料として貴重な発見です。墓壙の下半分にある竪穴式石室は全長6.8m、幅1.3m、高さ1.7m、天井石は12枚で、上部はベンガラを塗り込んだ赤い粘土で覆われ、石室の壁面は板状の安山岩を垂直に積み壁面とし、露出しない部分まで水銀朱が塗られていました。2009年8月木棺の保存処理を行うため取り出したところ、木棺を置く為、岩盤をU字型に掘り下げ、上に朱を塗った石や土を重ね、すえつけられていた事も判明しています。水銀朱の使用量は国内の古墳では最大の200キロと推定されています。また木棺は従来はトガの巨木とされていましたが、2009年の調査で石室周辺から出土した木片を顕微鏡などで詳しく調べたところコウヤマキと判明しました。(木棺は現存長5.2m、底板の厚さ22cm)写真は保存処理が終わり公開された木棺(2019年 橿原考古学研究所にて) 

2011年6月に桜井茶臼山古墳に副室状の遺構が確認されたと橿原考古学研究所から発表されました。後円部中央にある竪穴式石室の北約4mと東約6mの場所で板状の石(長さ1.5m、幅65~75㎝、厚さ15~20㎝)が並んでいるのが見つかっています。石の隙間から覗くいたところ、空洞を確認し副室と判断されました。尚、地崩れが起きている西側にも板状の石が散乱している事より3か所目の副室があった可能性も考えています。ただ緊急性が無いとの判断で発掘調査はされておらず中身は不明です。

 

★出土遺物:後円部から二重口縁壺が出土しています。制作時から底部に孔が開けられているのが特徴で実用品ではなく儀式用として制作されたものと考えられています。

★副葬品:大王の墓に相応しい玉杖、玉葉をはじめ、三角縁神獣鏡などの鏡片、ヒスイの勾玉、ガラス製の管玉、小玉などの首飾り、 鉄刀・鉄剣・銅鏃などの武器類 等、盗掘されてはいたが素晴らしい副葬品が出土しています。さらに2009年の再調査で新たに銅鏡片331点が採取され1949~1950年の調査で見つかっている破片と合わせ、計384点を文様などを他の古墳で出土した銅鏡と照合した結果、巨大権力を示す国内最多の81枚以上(内、三角縁神獣鏡が26枚)の銅鏡が確認されています。

★築造年代:3世紀後半~4世紀初め

★発掘調査:1949~1950年,1972年(後円部東側と東くびれ部の南東部でトレンチ調査)2003年(東くびれ部、前方部東側)2009年(埋葬施設再調査)

★被葬者:4世紀初め、磐余地方に君臨した大王。 

★奈良ソムリエ検定テキスト掲載古墳(茶臼山古墳として)

 

【参考文献】

・ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳(千賀久氏)

・遺物が語る大和の古墳時代(泉森皎氏・伊藤勇輔氏)

・大和の古墳を語る(泉森皎氏ほか)

・王者のひつぎ(狭山池博物館)

・大和の古墳Ⅰ 大和における前期古墳の立地と構造(泉武氏)

・古墳 -桜井市古墳綜覧ー( 小島俊次氏)

・大和国古墳墓取調書(野淵龍潜編)

・大和の中の東アジア 桜井茶臼山古墳(橿原考古学研究所・由良大和古代文化研究会)

・古墳文化の成立と社会(今尾文昭氏)

行き方 

(注)現在、前方部の解説版横からの進入は古墳横の擁壁が傾き危険な為、立ち入り禁止ですので動画のようにくびれ部付近から入ってください。