だんのづか

段ノ塚古墳(舒明天皇陵)

 知名度は低いかも知れませんが、日本初の八角墳!!被葬者がほぼ絞れ、超大型の横穴式石室を持つであろうと推定される古墳です。被葬者の可能性が高い舒明天皇は、後の日本歴史を考える上で間違いなくキーパーソンの一人で、奥さんは斉明天皇、息子が中大兄皇子(後の天智天皇)と大海人皇子(後の天武天皇)とまさに飛鳥時代の歴史は舒明ファミリーによって築かれたと言えます。古墳周辺は狭いですが、生垣に沿って巡回できますので、拝所から見るだけではなく是非、八角墳の墳丘周りを身近で観察ください。季節にもよりますが、運が良ければ、八角の墳丘に所々、榛原石の張り石が散乱しているのを見ることもできます。目視で八角墳と判るわけではありませんが、「この八角墳の巨大な石室の中に舒明天皇と田村皇女が眠っているんだ」と思うだけで、なんかゾクゾクしてきます。身近でコレだけ手軽に観察できる天皇陵も少ないと思われます。忍阪散策の際には是非見学ください。

おすすめ度(☆5.0)

★所在地:桜井市大字忍阪字段ノ塚 

★墳形:上八角下方墳(外鎌山から南西に伸びる丘陵の南斜面先端に立地。前方後円形に生垣がめぐっています。南北80m、東西110mで測量図によると3段築成の方形壇の上に、2段築成の八角墳が築かれています。

★埋葬施設:文久年間(1861~64年)の「山陵考」によると、南面が崩壊し石室が露出した事があり、奥の石棺(舒明天皇?)は横、前の石棺(田村皇女?)は縦のT字型に安置されていると伝えています。石室は墳丘規模から全長20mを超える超大型の横穴式石室と考えられています。

★出土遺物:忍阪集落の各所で、舒明陵のものと思われる榛原石が確認されています。

★築造年代:7世紀中頃

★発掘調査:1992年、1944年 (宮内庁) 

★被葬者:舒明天皇・田村皇女(舒明天皇の母)? 

舒明天皇の父は、敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄皇子、母は糠手姫皇女(田村皇女)で推古天皇が628年に亡くなった後、蘇我蝦夷の後ろ盾で即位。在位中は第一回目の遣唐使の派遣、百済大寺の造営等、内外共に多事であったようです。日本書紀によると舒明天皇は641年に百済宮で崩御し642年に滑谷岡に葬られ、643年に押坂陵(おしさか)に改葬されたとあります。押坂とは現在の桜井市忍阪(おっさか)で、古墳の多い場所ではありますが、これだけの規模を持つ同時代の古墳は見当たらず、研究者の間では、宮内庁が治定している舒明天皇陵の可能性が極めて高いといわれています。延喜式によると母親の田村皇女は664年に亡くなり、その墓は舒明陵内とされています。「山陵考」によると陵の南面が崩壊し石室の一部が露出した際、村人が密かに内部を窺ったところ石室内に2基の石棺が置かれ奥の棺(舒明天皇?)は横に、前の棺(母親の田村皇女)は縦に置かれていたという伝聞が残され合葬墳であることが窺い知れます。八角墳はこの舒明陵を初めとし大王やそれに近い皇族に限定して造営されています。すなわち、舒明陵→斎明陵(牽牛子塚古墳)→天智天皇陵→天武・持統合葬陵草壁皇子(束明神古墳)文武天皇陵(中尾山古墳)と続き、白石太一郎氏によれば、八角という墳形は当時優勢を極めていた蘇我氏の大型方墳に変わるものとして創出されたもので、大王が畿内や地方の首長層に対し超越した地位を目指そうとした表れととることができる。八角の意味は中国の政治思想によるもので、天下の支配者の立場を象徴するものだろうとの考えを示されています。

 

【追記】

2015.1.15の新聞発表で奈良県明日香村の小山田遺跡から未知の石張りの巨大な掘割が発見されました。一辺50m以上の方墳と考えられます。橿考研によると榛原石で墳丘を覆う古墳は、7世紀中頃に限定され、この時期に蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(一辺約50m)を上回る墓を築ける人物としては今まで不明であった舒明天皇(641年没)の初葬墓ではないかとの見解を示されています。ただ研究者の間では当時の権力者、蘇我蝦夷の名前も挙げられており今後、論議をよびそうである。(注) のちに小山田遺跡の古墳部分については小山田古墳と命名されています。 

★奈良ソムリエ検定テキスト掲載古墳

 

【参考文献】

・桜井の横穴式石室を訪ねて(桜井市教育委員会)

・天皇陵古墳を歩く(今尾文昭氏)

・天皇陵総覧 舒明天皇陵(柳澤一宏氏)

・書陵部紀要(宮内庁書陵部)

 

・牽牛子塚古墳発掘調査報告書(明日香村教育委員会)

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