ごさしこふん

五社神古墳(神功皇后陵)

 五社神古墳は、奈良市山陵町にある古墳です。全国第12位の規模を誇る前方後円墳で、宮内庁により第14代仲哀天皇皇后の神功皇后の陵に治定されています。五社神古墳は、佐紀盾列古墳群の西群に位置しています。佐紀盾列古墳群は、全国有数の古墳群であり、五社神古墳のほか、佐紀陵山古墳、佐紀石塚山古墳、宝来山古墳など、多くの古墳が含まれます。墳丘長267m、後円部径190m、高さ26m、前方部幅150m、高さ19mの巨大な古墳です。墳丘は3段築成で、周囲には周濠がめぐらされています。墳丘からは、埴輪や葺石など、多くの遺物が出土しています。被葬者は明らかではありませんが、宮内庁により神功皇后と治定されています。神功皇后は、第14代仲哀天皇の皇后であり、第15代応神天皇の母です。

おすすめ度(☆4.5)

★所在地:奈良市山陵町

★墳形:佐紀古墳群では最大規模の前方後円墳。全長267m、後円部径190m、高さ26m、前方部幅150m。高さ19m。前方部を南に向ける。後円部4段、前方部3段築成。埴輪、葺石あり。周濠は北側が空濠で他の三方は水をたたえ、周濠は渡り堤で区切られ東側は灌漑用の溜池に改変されています。

周辺に位置する5基が陪塚と考えられており、内4基が宮内庁でい号、ろ号。は号、に号に指定されています。(但し東南のものは、周辺の秋頭古墳群とも呼ばれる後期古墳群に含まれる可能性が考えられます) 

★埋葬施設:1849年に盗掘を受け長持型石棺があった事が考えられています。

★出土遺物:鰭付円筒埴輪、形象埴輪

★築造年代:従来、五社神古墳を佐紀古墳群で最初に築かれた4世紀前半~中頃の古墳で、行燈山古墳(崇神天皇陵)などの特徴を引き継いだ古墳と考えられてきましたが、2003,2004年の宮内庁の調査や以前に採集された埴輪から、4世紀中頃~末の可能性が高くなっています。従って築造された順番は、佐紀陵山古墳佐紀石塚山古墳→五社神古墳(佐紀古墳群西群の大型古墳中、最終段階の古墳で、以後王墓は古市古墳群に営まれます)

★調査:2004年に墳丘の精密な測量が実施され、後円部の北部がやや寸づまりになっている事と、前方部の南東角が現状よりさらに長く、現在の周濠の中まで達している事が判明。幕末期の修復でかなり形状が変化している事が確認されました。また2008年2月22日、陵墓としてはじめて研究者16名による立入観察が認められましたが、1段目のテラス部分のみに限定されましたが、この時の観察調査で東側前方部の後円部よりの所で埋まった状態の埴輪が発見されています。

★被葬者:不明 現在、宮内庁で神功皇后の「狭城盾列池上陵」として管理。

★奈良ソムリエ検定テキスト掲載古墳 

 

【参考文献】

・百舌鳥・古市古墳群出現前夜(近つ飛鳥博物館)

・ヤマト政権の一大勢力(今尾文昭氏)

・天皇陵古墳を歩く(今尾文昭氏)

・大和古墳めぐり(前園実知雄氏ほか)

・天皇陵総覧 神功皇后陵(濱口芳郎氏)

・大和国古墳墓取調書(野淵龍潜氏編)

 

【見学記】

 佐紀古墳群最大クラスの古墳で見応え十分です。巨大古墳なので一望することは難しいですが、外堤上をほぼ一周できますので、いろんな角度から素晴らしい眺望とその大きさを実感できる古墳です。 平安時代に成務天皇陵(佐紀石塚山古墳)と混同された事が「続日本書記」で知られ、江戸時代には考謙・称徳陵(佐紀高塚古墳)と考えられていましたが文久3年(1863)に神功皇后陵と治定され今に至っています。現在、拝所の西端に並んでいる石燈篭八基は、従来神功陵とされていた佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)から移築されたものです。尚、五社神という名前は時期は不明ですが後円部墳頂に祠堂があり、五社神と呼ばれていた事からきていると思われます。

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